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智弁和歌山 高嶋監督勇退 「2人の仁」と野球ノート [日記雑感]

智辯学園和歌山高校の高嶋仁(ひとし)監督が勇退され、昨年から同校コーチを務めるOBの中谷仁(じん)さん8月24日付で就任することになり、何か書きたいと思います。

智弁和歌山は住所は和歌山市ですが、和歌山市と隣の海南市との境にあり、市内の実家から自転車で30分ほど3年間通学してました。高校は古墳塚のある丘(校歌の歌詞にも出てくる「神撫台(しんぶだい)」)の上にあるのですが、ちょうど学校の下、一番近くの交差点のある橋の上では、高嶋先生が毎朝、自転車通学の生徒の交通整理のために、仁王立ちで(?)立っておりまして、チャリンコで走りながら、朝の挨拶をしていたのが懐かしい思い出です。

野球部の応援は全校公式行事でしたので、地方予選の紀三井寺球場もよく行きましたし、野球部の勝ち上がりで時間割も変わりますから、地方大会では応援してその足で直帰できるときはラッキーだと思ったものです。全国の第一試合の組み合わせだと、朝の5時頃学校集合だったかと記憶してますが、早起きが大変でしたが、94年の春の選抜では、宇和島東戦で8回まで0-4を逆転する試合をアルプススタンドで応援でき、結果初の全国制覇を生で見られるなど、勉強以外での数少ないいい思い出となりました。

10人の少数精鋭で、県内の地元の選手が中心、3年生ではベンチ入りできるのがチームの特徴。とりわけ平成の前半は、バッティングの強打が売りで、2000年の夏の甲子園では、準々決勝の柳川(福岡)戦や準決勝の光星学院(青森)戦をはじめ、接戦での勝負強さを発揮し、チームで安打100本、本塁打11本の最強打線で全国制覇を成し遂げたのが有名でしょう。

高嶋監督はすでに72歳で、ノックができなくなるなどの体力的な問題を退任理由に挙げられましたが、難病とも戦いながらで辞意を何度も慰留され、100回記念大会まで陣頭指揮を取られ続けました。また来年には、高嶋監督の孫が入部されるのではとの話もあり、「孫には厳しく指導できない」という話も記者会見の質疑応答ではあったようです。

さて、「2人の仁」の高嶋監督の後任となる中谷仁コーチ(新監督)についてです。先日、記事にアップした高塚投手とバッテリーを組んだ、1979年生まれの捕手で、私と同郷・同世代です。チームの主将として97年夏の甲子園で優勝。同年度にドラフト1位で阪神に入団し、06年に楽天、12年に巨人に移籍し、13年に現役引退。17年4月から母校の智弁和歌山のコーチを務めます。

中谷新監督は、高校の時点から高嶋監督から「いつでも智弁に戻ってこい」とのラブコールを受けていたようですが、プロの世界に進みます。プロの選手としては、阪神時代に携帯電話を投げられ負傷する不幸な事故等もあり、1軍の舞台に立てる機会は少なかったものの、楽天時代には野村監督・星野監督に仕え、田中将大投手のボールを受けるなど、貴重な経験を積みます。

巨人時代には原監督から、ブルペンキャッチャーとして高く評価され、WBCではブルペンコーチとして帯同するなど、1軍レギュラーの機会に恵まれなかった半面、各チームでゲーム外の貴重な戦力として認められていたことから、15年も長きにわたりプロの世界にいることができたのです。大変苦労された方のようですので、この人生経験を高校生に伝えられるのは、非常にありがたいことではないでしょうか。

今回の100回記念大会の期間中に、新刊「野球ノートに書いた甲子園 FINAL」を読みました。第1章(Note #1)では、智弁和歌山が取り上げられており(次章に大阪桐蔭が出てきます)、野村監督の影響から「書くということが野球人生に役立つ」ということで中谷コーチが当時の1年生・現在の2年生を中心にはじめた野球ノートをはじめたことが紹介されてます。「マー君はこんな球放ってたよ」なんて生の声を聞けるなんて、野球人からすればどれだけうらやましいことでしょうか。

プロ野球経験者が母校に戻り、高嶋監督のほか、プロの野村監督・星野監督・原監督の薫陶を受けた者が後任監督に就任するというのは、智弁和歌山にとって幸せなことではないかと思います。新チームには、甲子園経験のある「野球ノート」の2年生が多く残りますし、高嶋監督が果たせなかった「打倒大阪桐蔭」を果たせることを、これからの楽しみにしたいですね。
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